昭和41年09月24日 朝の御理解



 朝の御理解といい、昨日の、御霊様の霊祭の後に引き続いてのお話といい、頂いておりまして、何か一つの一貫した神様の動向、いわゆる動きとでも申しましょうか。私共に求め給う所の信心の動向というものを、新たに方向を変えて行こうとなさっておられる。新たな信心に導いていこうとして下さっておると言った様なものを、私は感じたのですけども、皆さんは何かそう言う様なものを感じになられなかったでしょうか。いわゆる椛目も言うなら、一段と信心が高められ。
 まぁ言うならば、霊徳輝くと言った様な感じのお広前から神徳。しゃんとして輝くという様な、お広前の雰囲気とでも言うか、又はそういう事になっていかなければならないために、お互いの信心内容が、変わってこなければならない。と同時に形の上においても、やはりそうした意味においては、垢抜けして来なければならないと言った様なものを、まぁ色々な点から、私昨日感じたんですけれど。皆さんは何かそういう様な風なものを感じられなかったでしょうか。
 例えてまぁ例を申しますなら、これは形の上ですけれども、昨日霊祭に合せて玉串なんかを、しかしあの本当にあの有難いことですね。あの沢山昨日は、沢山また玉串を切ってきてございましたけれど。そげん沢山て言いよったけれども、結局はあのあげたいという人達が、もうきっちりでございましたね。あれだけ沢山の玉串が、二本余っておりました。だからその二本とても、だから後から、あげて貰わなければならない人が、直ぐ見えたんですから。もう実に神ながらな事だと思いますですね。
 ですから確かに、あぁいう神ながらな働きを頂いておるのでございますけれども、ま、あぁ言う様な事もこれが、昨日は朝から五百あまりの方が、お参りになっております。ですからほんなら五百が千になってまいりましたら、到底出来ませんよね。銘々が玉串あげると言った様な事は。かと言うてほんなら大祭の様な訳に、代表だけでという訳にも、まぁ参りませんでしょうけれどもです。何とかそこに垢抜けのした、ま少しすきっとした、時間を取らないで、それでそのこう十分と言った様な。
 あり方にも段々変えてこなければならないだろう。この二十九日に御生誕祭がある。結局教祖の神様のお誕生日だ。ですから教祖の神様のお喜び頂けれるような、お祭りにならなければならないというので、なら教祖の神様は年寄りを敬えとか、大事にせよとかと言うて、年寄りを大事にする事を教えておられるのであるから、とりわけ一つ年寄りの方を、大事にさせて貰える、何か催しでもさせて貰うたらどうかと言った様な事から、福引御理解つきの福引とか。
 又は余興に、まぁ色んな浄瑠璃をしたり、浪花節をしたりといった、演芸をさせて頂いておったんですよね。婦人部の方達は、その敬親会の方達に、全員参拝者全員に、まぁこことしては念を入れたお弁当を作って、まぁサービスしこれに努められたわけなんです。ね。けども段々段々椛目の信心が、おかげを頂いて参りまして、ほんなら椛目のお広前から、合楽のお広前に移転して行くという事になってくる時に、ほんならやはりそうした垢抜けしたこれは、例えば甘木教会辺りの、大きな教会になりますとね。
 大祭なんかにお参りをさせて頂いても、お弁当なんかは全然出はしませんよ。そら出されませんよね。例えば千人からになってご覧なさい。とても千人の者を前の日にお弁当を作って、とても出来ませんよ。そういう手の要るような事をしなくてもです。それよりもっと有難い。だからゆっくりお説教でも頂いて行こうと言う人は、みんなお重箱持ちですよね、あの甘木辺りは。お弁当持ってお参りになるんです。それが大体は本当ですよね。という様な例えばことに。
 まぁだ他に例を言うなら、幾らもございましょう。飲み物は持っていかなければならん。けれどもそのただ幼稚なものは、少し成長したならば、もうその幼稚なものは必要でないことになる。無ければならん。例えばほんならその生誕祭の、ね。教祖の神様が、お喜び頂ける事の為に敬親会。いいや敬親会とか何とかと言うよりは、もっともっと実を言うたら、喜んで貰えれる事があるのじゃないだろうか。わざわざあんなに沢山の、贈与をかけてから、こらもう金額にどもするなら、随分な事ですよね。
 それでいてほんなら、生誕祭はあの普通のお祭りのように、盛大かと言うと盛大じゃないでしょうが。ほんの敬親会の方達を取り巻く、いくらかの人達がお参りするぐらいな事。いわゆる敬親会の為の、生誕祭と言った様な感じがするでしょうが何時も。ね。ですからそう言う様な事からでも、考えなければならない様な事になる。恐らくはあれが今年最後の、生誕祭の催しと言った様なのは、これが最後のものであろう。
 本当に生誕祭らしい生誕祭が、合楽では仕えられる様に、なるのではなかろうかと言う様な、感じが致します。昨日の朝から、そして霊祭の後のお説教なんかを頂いておりますとです。何かそういう新しい動向を感じます。例えば御霊のお祭りでもです。何か知らん、こうまぁ言うならじめじめしたですね。御霊ともう直接のお話し合いと。御霊が現れて、どうのとかと言う様な事ではなくても、銘々の生き生きとした信心によって、神様と交流する道があるだ。御霊様と交流する道があるのだ。
 御霊様のこういう有難いお夢を頂いて、御霊様の実在を知るというのではなくて、もう当然そこんところは分からせて貰って。もっとすきっとした垢抜けのした。お互いの信心というものの、いわば程度というものが、高められて生き生きした心をもって、神様に仕えさせて貰い御霊様に接すると言った様な信心を求められると言った様なですね。昨日の私はあのお説教を、自分で説かせて頂きながら、そういう事を感じたんですよしきりに。ね。なるほど神様のお知らせを頂くことも有難い。
 御霊様を直接色々、御霊の働きを見せて下さることも有難い。けれどもで無からなければ有難くない。でなければ信心じゃないような一つの、思い方と言った様なものをです。いわゆるその霊徳。これはもう絶対これは、現在椛目でなからなければ出来ないことですよね。銘々が御霊様のお知らせを頂くなんて事やらは。他所の教会では例がないです、こういう事は。ね。ここに私の一つの、霊徳なら霊徳と言う柿木があるから、その柿の木に同じ味の柿がこう、なっておる様なもの。
 信心は出来んでも、やはり両目が開いておると言った様な感じ。ね。昨日そういう霊徳的な事からです。本当の意味での神徳。神徳というのは、それこそ私共ではあまりもその大きいから、ね。本当は分からないくらい。実は私共わが身は神徳の中に生かされてあると仰られる。ために私共が本気でです、我情を取らせてもらい、我欲を取らせてもらい。わが身は神徳の中に生かされてあるという実感の中にです、ね。
 昨日のお説教の中にも申しました。三代金光様のお言葉ではないですけれども、ね。おかげをおかげと分かれば、おかげになりますと仰る。本当に私共の周辺にです。天地の親神様の御神徳溢れるばかりの、御神徳の中にありながら、私共が我情があるために、我欲があるために、御神徳の中に浸らせて頂いておるということが分からず。特別御霊様のお声を聞いたとか、神様からこういうお知らせを頂いたとか言わなければ、神様が実感出来ないという様な信心から。
 我情さえ取れば我欲さえ取れば、わが身は神徳の中に生かされてあるんだという事が分かるのだ。ね。そういう、私は、信心を、神様が求めておられる。そういう信心に垢抜けして行って、ね。そういうものを私は昨日、感じたんですけれども、皆さんそういう事を感じられなかったでしょうか。確かに片一方で御霊のお話も、させて頂きながらですね。段々段々話がそういうところへ持っていかれた感じだったでしょうが。ね。例えば今の教団辺りで、今の教団辺りでち言うが、教団の動きというのがです。
 例えばこの頃からも、あの高瀬弘子さんが、今学院でおかげ頂いております。まだ若いながらも非常に霊徳の優れた娘さんです。高校卒業してから直ぐ御道の先生にでもなろうと、志すぐらいな人ですから、もうそら確かに、もう霊徳優れたものを持っております。で、なら御本部なら御本部で霊徳面のことを言うと、もうどの先生方でもそれをですね。封じられようとするような働きがかかる。いや金光様ですらその事をお伺いさせて頂いたら、大変御祈願が悪かったという事ですから。
 金光様私のあの学舎ですたいね。自分達の部屋です学院の。部屋にその御霊様が現れなさるという事をお届けさせて頂いたら、非常に金光様がご機嫌が悪かった。だから金光様の弟様になられる、真整と言う先生がおられますね。金光様の何時も、三代金光様のお手を引いて、何時もあのお斎場に現れておられた、お出でになられた金光様ですよね。であの金光様が御結界奉仕の時に、申し上げたら、御祈念の後にですね、その事を高瀬さん大事に、大事になさらないけません。
 けども人にお話になってはいけませんと仰ったそうです。ね。ですからそういう事を軽視するのじゃありません。けどもそれが無からなければ、御霊様が分からん。それが無からなければ、神様が分からんと言う様な事では、駄目だということ。と言うてそこに血も肉も無いようなですね。その信心に化してしまってゃ駄目です。表面化してしまったのでは、信心では駄目です。そういう様な一つの内容としてです。私共の信心が本当に我情が抜けていき我欲が抜けていく。
 確かに教祖様が仰る、わが身は神徳の中に生かされてあるという、神徳の中に生かされてある事を、実感出来れる信心とはです。そういうところから、生まれてくるのじゃない。ね。という様な、私は、動きをです、現在の椛目の信心の中に感じます。それは、段々、皆さん、感じられるでしょうが。十五年前辺りの椛目の信心と、現在の椛目の信心と。ね。例えば私のお取次ぎ状態なんかでも、全然変わっておるでしょうが。言うならばすきっとしてきたと言う感じなのです。ね。
 現在の椛目の信心は、事実だから仕方がないのですれども、昨日のような、例えばほんなら、御理解でもですね。なら一般の金光教の、まぁいうなら心の無い人達が聞いたらですね。椛目は何とはなしに、何か神様が物言うござるごたる。まるきり御霊様が出てきてござるごたる感じと言う様なものをですね。感じるだろうと思います。ね。けどもそう言う様なものは、感じさせなくてもです。神様を感じられる。それは神徳の中に生かされてあり、ね。教祖の神様の御理解の中にも、ね。
 本当言うたらご信心とはもう疑えばきりがないもの。声も無からなければ姿も無い。それが本当なのだ実を言うたら。けれどもそこを信じて頂いていけばです。信じて御教えに即応していけばです。我情が取れ我欲が取れして行く所にです。成程わが身は神徳の中に生かされてあると言うです。米一粒の中に神徳を発見する。ひと掬いの水の中に、神様の姿を見る事が出来るようなです。おかげを頂かせて貰うていかなければならない。まるきりお知らせを頂くために、信心しよる人達があるんですもんねぇ。
 何かが神様から直接お知らせを頂くために、修行しよると言う人達があるんですもんねぇ。それは本当言うたら可笑しいです。実はそんなもんじゃない信心とはです。そういうものじゃない。信心とはどこまでも本心の玉を磨くものであり、どこまでも日々の改まりが大事であるという事なんです。ね。そこからいわばこの宇宙に、いわば遍満しているところの、ね。しゃんとした神徳を、自分の心の中に感じることが出来る。そこに本当の神恩報謝の生活。
 神様の声を聞かなければ、神恩報謝の生活が出来ないと言った様な事では出来ないということ。ね。それが私はまたそこに一つの、まぁ落とし穴というかね。そう言う様なものがありますよね。そういうことになって参りますと、段々美しいことばっかりになってからです。もう本当にその神様の実在とか、例えば神の声を聞いたとか、神の姿を見たとかと言った様なですね。事を非常に軽視するような向きが、出来てきたりしてはいけません。それはそれとして、いわばその真整先生が仰ったという様にです。
 大事になさらなければいけませんということです。けれども人に吹聴してはいけませんとこう言うこと、ね。神様のそうした、椛目の動向を指し示して下さっておるような気がするのでございますから。皆さんとてもそういう線に沿うてです。より神様に喜んで頂ける様な信心。例えばご生誕祭なら、ご生誕祭を仕えさせてもらうが、ね。大体言うたら敬親会の方達が見えて、若い人達がいっぱい見えて、敬親会の方達を中心にして、お祭りが奉仕されていかなければならない。
 のだけれど、何かもう生誕祭ちゃ年寄りばっかりの、お祭りの様な感じになってしまって行きよるでしょうが。行きよるじゃなくて、そんなに感じるでしょうが。ちょうど月次祭にお参りしてくる人達ですらが、参ってこないでしょうが。まぁ今日は敬親会。もう生誕祭じゃなくてから、敬親会のごたる。いわゆる敬老会のごとなってしまいよる。ね。これでは私は神様の本当の喜びはないと思います。ね。
 ですから恐らくはです、こらまぁだみんな総代幹部、みんなが協議してからの事でなからなければ、私が一存でどうという事は出来ませんけれども恐らくは、例えば生誕際がです本当の生誕祭らしい生誕祭。敬老会を中心にしたところの生誕祭と言った様なものが、恐らく今年が最後じゃなかろうかといった様な気がする。また本当言うてあれが続いたっちゃ、本当な事じゃないと私は思うですね。ね。
 本当に大祭でもです、ね。私は思いよります。椛目でもですよね。もう現在お弁当が五六百ぐらい出来るんですかね。五百位出来るんですかね。あれがやっぱり七百、八百と言うごとなったら、もうお弁当は止めなければいけないと私は思うですね。そしてもっと本当な信心。そら弁当貰うとに参って来ると言った様な人達も、ありはしますまいけれどもです。そんな事じゃない本当に御大祭は御大祭としてのです。
 御大祭が出来る様な信心内容と言うものが、出来て来ると同時に形の上には、ね。そういう言うならば要らん手を省かせてもらって。その事をもっと神様に喜んで頂ける様な事に、使うていかなければならんと言う様に思うのですね。私はもうこれは皆さんもお気付きでしょうけれども。私はもうこらいかんと思うたことは、すっすっともう改めていかなければ出来ん性分です。
 もうどういうこの素晴らしい、例えば良いですねと。例えばこの敬親会なら敬親会に、お年寄りの方達を中心にしてから、何とも言えん雰囲気が、生まれることは生まれる。沢山のぞうえいをかけてから、各地区の人達が受け持って、余興なんかをなさる。良い事なんですけども、一つそれよりも良い事があるなら、私はもう私の気持ちとしては、もう本当にあのすきっとこれは次の方へ移って行く。
 椛目のここ十五年間のことをですたい。思うて見ると確かにそういう、もうすきすきとしたその変わり方と言うものを、いわゆる椛目の一つのこれは歴史ですから。ね。その歴史を自分の歴史と言うものを、振り返って見る時に、そういう風に変わってきておるものを感じる。けどもいよいよ椛目の場合ですね。ここに霊徳から神徳へです、ね。そういう雰囲気の中に信心の稽古をさせて頂く。またそれを願い求めておられる神様の願いをです。何か昨日今日感じるのです私。
 皆さん昨日からの事を、ずっと思うて見て下さい。そしてそれを皆さんが実感されるなら、そういう線にまた沿うてです。応える信心がおかげを頂いていく。そして結論するところはです、ね。問題は私共の我情我欲というものが、取り除か、段々薄くなって参りますと同時に、だんだん厚うなってくるのは、神徳の中に生かされてあるという事が、いよいよ深くいよいよ実感として感じられるような、信心になっていかなければならないという事なんですね。
   どうぞ。